だが、時折止まる糸車の音。重い小さな溜息が時々混じる。いかに、幻之介の気持ちを持ち上げようとする男達にも、こればかりは止められたものではなかった。微かに聞こえる蹄の音。恋しさの幻聴までが幻之介を煩わせる。ぴったりと止まってしまった幻之介の袖を引く小さな者。その存在に視線を向ければ、
「…戻られたようですわ」
突然囁く白狐。
「な…にが…」
と、わけも分からずに声を返せば振り返る狐の視線の先。見覚えのある馬体の黒い影。
思わず綻んだ顔だったが、体も動かせない程の緊張が走った。近づいてくる想い人に駆け寄りたい気持ちと、裏腹な不安。このまま、正体知れずにどこまで一緒にいられるのか…。その想いが幻之介の動きを鈍くした。
ゆっくりと立ち上がり、男を迎える為に戸口へと向かう幻之介。
「幻…。余計な事なんか、考えるんじゃねえよ。…やっと戻って来たんだからさっ」
不安に震える幻之介の頭を優しく撫でる大男の大。その、優しい心根に、幻之介は小さく頷きを返した。
ついっ、と面を上げて戸口を見れば、思い人がそこに立っていた。だが、近づく事を躊躇わせる雰囲気に、幻之介の足が止まった。微かに漂ってくる甘い香りと、相手の表情。はっ、と幻之介が息を飲んだ瞬間に、目の前の男の平手打ちが飛んだ。ぐいっと掴み上げられた胸元の苦しさに幻之介の表情が歪む。が、男の表情はそれ以上に怒りに歪んでいるように見えた。
「…幻之介。おめえは、優しくしてくれる男なら誰でもいいのか…」
静かに響く怒りの声。が、その怒りの矛先がどこに向いているのか幻之介には理解できなかった。
「…何の事」
「てめえ、俺が居ねえ間に、誰と乳繰り合ったんだ。…なんだよ、この痣はっ」
顎を取られて、無理やり向けられた顔。彼の目の前に差し出された首筋に残る微かな吸い痕。
「…ちがっ」
「何が違うって。俺が付けたのなら、とっくに消えちまってんだろうが。…誰だよ、相手は。…大か。…そういや、さっきは良い雰囲気だったもんなあ」
先ほどの大との遣り取りを見ての邪推。幻之介は云い訳も出来ない程の勘解由の怒りを感じてただ僅かに首を振る。ぐいっと、勘解由の顔の高さに吊り上げられた体は、すでに足も届かない高さ。間近に見る勘解由の怒りに、ただ幻之介は言葉を失くした。
頬を張られた乾いた音。低く唸るような勘解由の声に、すぐ傍にいた大ですらも動けなくなった程。
「旦那、何言ってんだよ。幻がそんな事」
「黙れっ。てめえが、相手かよっ」
幻之介をそのままに、今度は大に向かう勘解由。その喧騒を聞きつけて、他の男達が勘解由に飛びついた。
「何やってんの、旦那」
「馬鹿な事言ってんじゃないよっ、離しなさいって」
男達の必死の攻防に、幻之介を掴んでいた腕の力も緩んだ。どさり、と音を立てて落下した幻之介を庇う男にも、勘解由の邪推に塗れた暴言が飛ぶ。
その様子に、幻之介はただ何も言えなくなってしまった。張られた頬の痛みと、勘解由の怒り。自分の落ち度ではないと云い切れない吸い痕の存在。その場に居た堪れなくなって、幻之介は屋敷を飛び出した。その背後からの男達の声も、幻之介の耳には雑音にしか聞こえなかった。
戸口を出た途端に、大きな影にぶつかりそうになって思わずその場にしゃがみ込んだ幻之介。すぐ傍から聞こえたのは、馬の激しい嘶き。その激しさに思わず幻之介は己の耳を覆った。蹄に引っ掛けられる痛みを覚悟したはずなのに、一向にその痛みは襲ってこなかった。
恐る恐る視界をずらせば目に入ったのは、見覚えのない男の足元。
「わっぱ、またお前か…。良く我が前に飛び出してくる。…怪我はないか」
聞き覚えのあるその声に、幻之介は振り仰いだ。にやりとした笑みを浮かべた細面。ほりの深いその鋭い目元。
「…なぜ、貴方様がここに」
「探したぞ、わっぱ。先の約束、忘れておるまいな」
云い放った男が、幻之介の体を引き起こした。背後に立つ美丈夫は、あの時と同じ苦笑を浮かべていた。が、その後ろから、もう一騎かけてくる。幻之介よりは幾分年上と思われる若い男。
「…なんで」
と、呟いたのは、戸口から出てきた勘解由を含めた男達。
「殿、お待ちください…」
そう、声をかけたのは息を切らせた若い男。微かに、勘解由の体から香ったのと同じ香りを漂わせ馬から飛び降りてみせた。
その姿を見て鼻先で笑う男は、幻之介の体を抱き留めたままであった。
「付き合え、わっぱ。この前の続きだ。…我の早掛けに付いて来れれば今回は諦めよう。が、出来なければ――、解っておろうな…」
その、言葉に戸口の勘解由が怒りを露わにする。
「何言ってやがんでっ」
その傍に駆け寄ったのは、若い男。
「叔父上、誰に向かって」
「ほう、その方がこのわっぱの念者と云うわけか。…これが、操立てして死のうとした程の男とは思えんがな」
云いながら、幻之介の首筋に舌を這わせようとする男。幻之介は、それを両腕で拒んで見せた。
「戯言はおやめ下さい、魔王殿」
幻之介の非力な抵抗では、その男の腕も振り解けない。
「戯言では無い。我は本気ぞ。いかにするわっぱ。このまま連れ去っても良いのだがな…。我に逆らえばどうなるか…、見たいか」
「やりますから…。離して…」
もがく幻之介を、手放すと魔王と呼ばれた男は微笑んだ。
「着替えて来い。…竹、手伝ってやれ」
短い命令口調に、幻之介は項垂れた。美丈夫の男が手渡してきた包みを受け取ると、幻之介は勘解由の傍を掠める様に屋敷の中へと向かった。
「我を、あまり待たせるでないぞ」
そう云い放つ魔王には振り向きもせず頷いただけ。足取りも重く、部屋の中へと歩を進めた。
開け放たれていた引き戸を閉めて、薄暗がりの中己の来ている物を脱ぎ落とす。竹と呼ばれた若い男と一緒に、勘解由もその部屋に入って来た。無言のまま、包みに手をかけた幻之介は、その中身を広げて小さな吐息を零した。それを、横から掠め取った若い男。幻之介に着付けながら勘解由に向かって発せられた言葉。
「叔父上、覚悟召されよ。殿は本気の様ですよ。…この衣裳を用意したという事では。この勝負…、はなから勝ちは有りませんよ」
「なんで…、だよ」
「経緯は知りませんがね…。どうやら、見染められたらしい。この籐五郎と対にしたいそうな」
馴れた手つきの若い男に着替えを任せながら、幻之介はただ、黙っていた。
「…いつの間に、そんな事になってんだよ。おいっ、幻っ」
声を荒げる勘解由にも、幻之介は言葉を返さなかった。
「大声出さないで、叔父上。先に言っておくけど…、この小姓衣装はちょっと厄介でね。風を孕んで広がる様に作られている。…少しでも、見栄えが良いようにとね。だから、早掛けなんて無謀の勝負。これで、側小姓に無理やり上げられた者達も多くいる…。まあ、殿に飽きられればそれまでの事だけどね…。……さ、これで出来たよ。…後は髪を上げるだけ」
誰に向かった言葉ともとれる若い男の話。着付けの手が離れた時、幻之介はやっと口を開いた。
「後は、自分で…」
長い総髪を手櫛で器用にまとめていく。手渡された結び紐で、きつく頭上高く結いあげられたその姿。肌の白さも極まって、唇は僅かに紅を引いた様な色つき。派手な縫いとりの施された衣装も、纏う人間の色香を十分に引き出す程。どこから見ても、完全に色小姓と云う出で立ち。流石の幻之介も苦笑いを浮かべるしかなかった。相手の意思は明白。勝てなければ、己の身に待ち受ける結果は容易に知れる。
俯き加減だった顔を持ち上げると、幻之介は馴染みの笛袋に手をかけた。中か引き出したのは、勘解由に授けされた焔華と己の不知火。割れた不知火は簪代わりにと、結い上げの髪の根元に付き入れられた。胸元には焔華をそのまま差し込む。何かを吹っ切る様に吐き出された吐息。一呼吸の後、くるりと踵を返して、勘解由の前に立った。
先程までの怯えも無い。むしろ、無表情に近い面持ちのまま勘解由を見上げた。
「脇差を…、貸していただけませんか」
思った以上に、淡々とした口調。むしろ、勘解由の方がうろたえた様な表情を見せた程。が、相手の男は無言のまま、己の脇差を渡してよこした。
「有難うございます…」
手渡された脇差を抱き締めた。
「それを…、どうするつもりだ…」
そう聞いてきた勘解由に、なぜか自然と微笑み返す事が出来た。
「…死にまする。負けた時には…。この身の、潔白の証に…」
脇刺しに軽く口寄せして、己の腰先に差し込んだ。
「幻…、おめえっ」
「黒駒、お借りします。…負けませぬ、貴方様への想いに掛けても…。たとえ、この身を鬼に変えても…、勝って見せまする」
そっと背伸びで勘解由の口元に、己のそれを重ねた。ほんの一瞬の出来事。泣きそうになる気持ちを堪えて男に微笑んだ。僅かな触れ合いを胸に抱いて幻之介は戸口へと向かった。
(勝っても、負けても結果は同じ。…もう、あの方の傍には居られないのだから。…でも、せめて最後だけは、無様を見せずに…)
覚悟の決まった幻之介は、ゆっくりと黒駒の元へと歩んで行った。
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