大を運びいれた勘解由の屋敷――。いつものように、男達が囲炉裏端に車座になっている。が、いつもの様な明るい雰囲気は無かった。
時々上がる、大のうめき声。大量に噴き出す汗を、拭い取る幻之介。その手伝いを、男達は甲斐甲斐しくやっていたのだった。微かに良くなったような顔色を、幻之介はただ見詰めていた。
「幻之介…、大丈夫か…」
与太郎が、幻之介の顔を覗き込んだ。
「この、汗さえ治まってしまえば…」
「じゃあなくて、おめえの事だよ」
云われて、幻之介はきょとんとした表情を向けた。
「おめえの方が、大分顔色悪くなってんぜ」
「…そうですか」
「ったく、いい加減にその顔、流してこいや。幻」
二人の間に割って入ったのは佐吉。
「ゆっくり、流してこい。…ここは俺らがやっておくからさっ。…そのころにゃ、晩飯も出来上がらあな」
与吉がそう、後に続けた。
「…おめえが倒れたら、大は助かんねえだろうがよ」
と、湯殿の方へと、幻之介を追いやってくる始末。
「…でも」
と、答えると、
「行って来いって」
と、皆が口を揃えてきたのだった。
幻之介は、その言葉に微笑み返した。
「じゃあ、言葉に甘えて…」
と、幻之介は湯殿の中に消えた。
見送る男達は、ゆっくりなっ、と声をかけてきたほどであった。
頭から、湯を掛け流す。途端に立ち込める臭気。微かな毒の臭いと共に、血生臭さが立ち込めた。それを、何度も何度も流してゆく。足元を零れる流れが色付かなくなっても繰り返された。湯に映る己の顔。はっきりと首筋に残る痣は魔王の残したもの。ついっ、とそれに手を伸ばせは、不意に込み上げてくる涙。血生臭い臭気が、勘解由との最初の夜を思い出させたのだった。しかも、あの時と同じ湯殿。幻之介は、涙もそのままに湯船にその体を沈めた。
(勘解由様…)
ことん、と湯船の縁に頭を寄せた。想う男の姿を目の前に思い描く。途端に感じた疼き。幻之介の顔が、湯あたりとは違う色合いに染まる。
(…なんで)
己でも信じられない程の反応。刺激も無しに、幻之介の物は天を仰ぐ。戸惑いながらもそっと寄せられた指先。
(…あの程度、…で)
あらためて、蝮の効果を失念していた自分に化が付いたのだった。そう、強壮剤としての効果を…。
「…くぅっ」
と、漏れる声。湯殿に響く己の声にますます頬が紅くなる。が、指先は動きを止めない。
「…はっ、…う、んんん…」
無意識のままに動く指先の軌跡。たった一夜の勘解由との想い出をたどっていた。快感に蕩けだした思考は男の幻を見せつけてくる。その幻のままに、幻之介は指先を走らせた。あの夜勘解由が触れた肌を…、幻は滑っていく。
「…もう、…」
誰もいない筈の湯殿に幻之介だけは愛しい男の姿を見た。幻に向かって差し出される舌先。艶を含んだ甘い吐息と共に幻之介はその幻に向かって迸らせた。
乱れた呼吸も整わぬまま、湯船のふちにその身を凭れかけさせる。色香漂う蕩けた表情のまま。幻之介は小さな吐息を漏らした。己でも理解できる程の変容。水面に映った姿をじっと眺める。
吐き出しても未だに燻り続ける心の焔。
「我は夜叉か…、それとも修羅か…」
そう呟く幻之介の瞳は紅く染まっていた。そう、その姿こそが本来の容。妖狐・幻丞の姿。かつて、勘解由が『ちびすけ』名付けた白狐の本性であった。
「もう…、どちらでも構わぬ。…今となっては」
独り呟く紅い瞳からは、止めどなく涙が零れ落ちていた。
時間の経過と共に、大の容態は回復へと向かった。喜びあう男達とは裏腹に、幻之介の表情は暗く落ち込んでいる。
そろそろ、大も己の庵に戻っても大丈夫と判断した夜。幻之介はひとり、勘解由の寝所から夜空を眺めていた。半月の月明かり。その中に浮かび上がる影は時として己の本性を映し出す。日の光ならば誤魔化しようも効くが、月明かりでは油断すれば影が焔を纏ってしまう。今も、時々影が勝手に揺らめくのだ。気持ちの揺らぎが、その集中力を欠いている。
(最早、これ以上は…。無理なのかも知れない…。誰かに気づかれる前に…)
ふと、そう考えて振り返った部屋の中。閉めていたはずの襖が開いていたのだ。そこに佇む男の姿を見て、幻之介は苦笑を浮かべた。
(…見られて、しまったか…)
ゆっくりとその瞳を閉じると、幻之介はその男に背を向けた。
「どこ行く気だ、幻…」
背後から呼びかける声に、振り向く事も出来ずに答えた。
「我は、もう…。ここには居られませんから…」
踏み出した足は、庭先の土の感触を伝えてきた。初冬の冷たさの感触。もうすぐ、この地も雪に覆われていく季節。見上げた夜空にかかる半月。幻之介の漏らした小さな吐息と共に、その体は焔を纏う。本来ならば青白い揺らめきの筈なのに…。
見つめた指先に纏わりつく物は、紅の炎。今更隠し通せない本性をさらけ出した幻之介。
かさっ、とうごめく影に視線を走らせれば、そこには青白き焔を纏った白狐の姿。なぜか、その傍には黒駒も佇んでいた。
屋敷の中からは、ガタリと何かの落ちる音。それを耳に留めながらも、また一歩を踏み出そうとした。
「本当に、宜しいのですか。…幻丞様」
問いかけるのは、白狐。かつての仲間であった存在。纏う炎の色は違っても、元は同じ妖狐の一族。白狐は、口も動かさずに人の言葉を発する。
「このまま、何処に行かれようと云うのですか?貴方様の、お気持ちは…」
「…人でない者が、正体見られてこのまま暮らせようか。我は、禍なす者かもしれんのに…」
踏み出した一歩を押し止める様に、黒駒が幻之介の袖口に噛みついた。纏わりつく炎も、ものともせずに…。
「およし、黒…。今は大丈夫でも、何時かこの炎はお前も焼く…」
振り払おうとする、幻之介の動きにも、その口を離そうとしない黒馬。
「何れは…、でしょう、幻丞様。…今は、その時ではありますまい。その焔は貴方様の気持ちの揺らぎが見せる幻。それで、焼き尽くす事はかないませんでしょうに…」
優しい微笑みを浮かべる白狐。ついっ、幻之介の足元に絡み付いて見せる。
「何故…、お前はここに居る。何故…、皆と一緒に行かなかった…」
「…抜けました。一人ぐらい、貴方様についていても宜しいんではないかと…、次期様」
「もう…、我は…」
「御婆様に聞いております。その上で、私だけが、私の意志で残ったのですから」
お気づかい下さいませんよう――、とひらりと黒馬の背に飛び乗った。黒駒の方も、満更ではない様子。
「女子同志。気が合いました故」
白狐は、ぺらりと黒駒の鬣を舐め上げた。
「黒も、大そう貴方様の事を――。それに、我らだけではないようですわ、あれを…」
白狐の促しに振り返れば、庵の男どもが四人。縁側に立ってこちらを見つめていた。皆が口々に行くな、と叫ぶ。戻って来いと激しく手招きする姿。
「黒っ。幻、離すんじゃねえぞっ」
「狐様、幻を連れていかねえでくれよ…、頼むから…」
白狐と黒馬に向かって投げられた男達の言葉。
「……だ、そうですわ。それでも、貴方様は行かれますか。まあ、我らはどこまでもお供いたしますが…。貴方様に、あの者たちを見限る事が出来ますのか…。それに…」
「云うなっ。…それ以上、もう…」
すうっと、消えていく紅蓮の焔。残ったのは、己を抱きしめたまま蹲る幻之介の姿だけ…。
ついっ、と黒馬が幻之介の袖を離した途端に、駆け寄ってくる男達。中でも強く、幻之介を抱き締めたのは大の腕。
「行かせねえ…。俺らの…、俺の天女様は、何処にも行かせねえ…」
「…何をっ」
と、反論の余地もなく、抱き上げられた幻之介の体。その周りには、他の男達も寄り添う。
「解っているのですか、貴方達。その御方がどのようなモノであるのか…」
向けられた、白狐の言葉に男の一人が答えた。
「関係ねえ。幻が何者であっても…。俺らにゃ、天女様にしか見えねえっ」
「…傍に居てくれるだけで良いんだ。俺らの…」
「中に入ろう。幻が冷えるから…」
戻る男達の後を、黒駒と白狐が続いた。
「黒…、てめえは厩に行きやがれっ」
男の言葉に、渋々と方向を変える黒馬。それを白狐が見送った。
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