一方社の中に残された二人。
対面したままで、無言だった。
静かな重苦しい時間を破ったのは白菊の方であった。
「このような茶番につきあう事は無いぞ……」
その声音は明らかに弱々しいものだった。
「別に茶番だとは思わねえが…。そっちが乗り気じゃなければそれまでの事だがな…」
「何の事ぞ?」
「理由は知らねえが…。その傷で事を致そうって言うんだ。姐さんの体が辛いなら、無理にとは言えんだろうさ」
松次郎の言葉に白菊の表情が曇った。
「姐さんが好いているのは幻之介殿なのであろう?」
白菊はその言葉に視線を動かした。
「好きでもねえ相手にその身任せようって言うんだからなあ……。まあ、野合や強姦ってわけじゃねえんだ。姐さんははっきり相手を選べる立場なんだろうにさ……」
途端に白菊の口からは嗚咽が漏れた。
「……たとえ好いていても、あの方とは添い遂げられぬ――。私一人の気持ちでどうなるわけでもあるまいに……。あの方は、我が主――。主の命とあらば、……私は、どの様な事でも致しましょう…」
幻之介の出て行った方を見つめながら白菊は答えた。
ゆっくりと体を起こした白菊。体に巻き絞められた布は赤く染まっていた。深さの割に、いぜん流血の止まらぬ傷。布が吸いきれない赤い体液が、ゆっくりとその肌をつたっていくのだ。
生気の失われていくその肌目。
「化生の雌一匹――。そのまま……」
と、白菊の声がそこで止まった。
「幻之介殿も、お前のように変化するのか?」
白すぎる肌を松次郎が抱きしめていた。
「……あの方は、我とは違うっ。あの方は…、あの方は……」
抵抗もなく、白菊は身を任せたままであった。
「まあ、良いさ。俺は野郎には興味がねえしな……」
松次郎の言葉に白菊は顔を上げた。
「たとえそれが、どんなに色香のある奴でもな……」
松次郎は優しげな微笑みを浮かべて白菊を見詰めていた。
「お前が嫌だと言うんでなければな……。俺は別に構わねえし…」
白菊はただ俯いただけ。
返事のない事を肯定と受け止めた松次郎はそのまま白菊の体を褥の上に横たえていた。
夜明けを告げる小鳥たちの声。
村の時間は再び動き出した。
いつもの表情に戻った村人たち。多少のぎこちなさはあるものの、誰もがいつもの生活に戻ろうとしているのであった。
勘解由は幻之介を抱きしめたまま、その光景を眺めていた。幻之介はと言うと、勘解由の腕の中で、無防備な寝顔を晒しているのであった。
そこへ近づいてくる村人たち。その手にはまるで供物のような盆と徳利があった。社の扉の前に腰をおろしている二人の前に来ると、老人たちはそれらを恭しく差し出したものだ。
「…いったい、何の真似だ?」
老人達に向けられた声音は、決して優しいものではなかった。
「あの…そちら様へ――。村を救って下さった生き仏様なれば……」
一人の老人の言葉に、勘解由は苦笑を浮かべるしかなかった。
未だ安らかな寝顔を浮かべる幻之介に、勘解由はそっと囁いた。ゆっくりと持ち上げられるその瞼。ただ、その表情はまだ夢うつつのようであった。
「お前にだと…、幻之介」
差し出された物を受け取って、幻之介は小首をかしげた。
その後に続く老人達の列。いつの間にか、幻之介の周囲は供物で一杯になっていった。
どんな形であれ――。幻之介の存在は村人たちに受け入れられた。
幻之介にとっては、その受け入れられ方に不満があるのだろうが、表情に現れる事はなかった。ただ、供物に視線を向けては深いため息を漏らすだけだった。
老人達は幻之介に触れたと言っては有難がり、口をきいたと言っては喜ぶのだった。その度に幻之介は苦笑を洩らしたものだ。
(嫌ならば、社の中に居れば良いものを……)
勘解由はそう思いながらも、それを口にする事はなかった。社の中に居る二人の事を気遣っての行動だというのが分かっていたからであった。
村人の中で忙しく動きながらも、幻之介は時々視線を向けるのだった。それも、ちらりと盗み見るように。勘解由はその姿を、笑みを浮かべながら見守っていた。
日も高く昇り、村人の一部は通常の生活に戻るべく己の家の中へと移っていく者もいた。見かけだけなら、いつもと変わらない生活を取り戻しつつあるのだった。
それでも、中には親を失った子供らもいた。所在投げに佇むその子らを、幻之介は集めると自分の手伝いをさせていたのだった。
「叔父上、何か手伝えることは?」
いつの間にか社から出てきた松次郎が、勘解由に向かって声をかけていた。その声に幻之介が気付くと松次郎は手招きを見せたのだった。
「……まだ、休んでいるんだ。あとで、様子を見ちゃあくれねえか」
小さな声で、そう声をかけてよこすと、勘解由共々、村の復興の力仕事に向かっていった。
孤児たちの身の振り方を決めた後、幻之介はそっと社の中を伺い見た。
中の人物は、それに気が付いたかのように、ゆっくりと体を起こしたのだった。
うっすらと頬を染めた白菊。
どことなく、気恥ずかしげな笑みを浮かべているのだった。
起きたついでとばかりに、幻之介は傷布を取り換えた。二人の間にほとんど会話はなかった。互いがどことなくぎこちない雰囲気を纏っていたのだ。その空気に根を上げたのは白菊の方だった。
「あの……、あまりお気づかい下さいませんよう、幻之丞様」
そう言いながらも白菊の肌は朱に染まった。
「お前の気にそぐわぬ事をしたのではないかと思うと……」
幻之介はそう口を濁した。
「幻之丞様の命とあれば、私は構いませぬ。それに――」
白菊の頬は益々紅くなった。
「……松次郎殿は、心根の優しいお方ですな。勘解由殿もそうなのでしょうか?」
白菊は幻之介をまっすぐに見つめ返した。
視線につられる様に頬を染めた幻之介。
「キツイ部分もあるけど……」
小さなその返事が、白菊の耳に届いたかどうかは不明のまま。幻之介は忙しなく手先を動かしていた。
「ともあれ、今しばらくは此処から動かせないな……」
傷の具合を見ながら、幻之介は答えていた。
「それに、このなりでは一緒に行くのは叶いませんでしょうし…」
それは、幻之介も考えていた事だった。狐のままならば、今まで通り勘解由の屋敷に共に暮らす事も可能だったのだ。が、すでに以前の姿には戻れぬ身。いきなり人型をした白菊を連れていったところで、どの様に説明すべきかも分からなかった。
返答のできない幻之介を見越してか、白菊は無理に浮かべたと分かる笑顔を向けてきたのだった。
「傷が癒えるまで……、多喜殿が独り立ちできるまでは、私はこの村に留まりましょう」
では、その先はどうするのか――。幻之介はそう問いかけるのが怖かった。
ただじっと白菊の顔を見詰めた幻之介。仲間達の元へ戻れない身の上は同じ。ただ、幻之介にはそれ以上、言葉をつづけることはできないのであった。
「可能な限り、私もここに……」
「その御心だけで充分です……」
深々と頭を下げた白菊を横目にとらえ、幻之介は足早にその場所を立ち去ったのだった。
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