遠い過去の記憶――。婆の娘時代のこと。初めてできた愛しい相手は、一族の掟で一緒になることの叶わぬ者であった。別れて以降、相見えることも出来なかったという悲しい記憶。婆の胸元には『不知火』が……。そして相手の胸元には『焔華』が――。そう、互いに交わることの許されぬ総領家の証があったのだった。二つの妖狐総領家の掟。力の突出した者が出やすい二家は、互いの血を交わることを禁じた。
その、二つの証が今――。幻之介の手元にあるのであった。片方はすでに壊れ、もう一方は己の好いた相手から手渡された。幻之介の元々持っていた『不知火』は一代限りの笛。総領家を継いだ者が倒れた時に、その者の体の一部から造り出される、云わば骨笛。次期様と呼ばれるのは、その骨笛を奏でられる者だけ……。婆様は、その相続を見届ける者としてだけ生かされたのだった。初めての恋を忘れることができなかった故。その相手を思いきることができなかった故に与えられた一族の術者としての呪。自分とはまた違った『呪』に苦しめられた者の最後の想いが、熱く体中をめぐるのであった。
(婆様――。私は……)
消化しきれぬまでも、流れ込んできた知識を幻之介は素直に受け止めるしかなかった。長年彼女が培ってきた知識も一緒に流れ込んできた。だが、その中には幻之介が求める情報は何一つとして無かった。そう、掟が破られた後――。その先の情報が欲しかったのであった。
泣き疲れ、冷え切った肌を湯船の湯が優しく包み込んでくれた。そう、それはまるで勘解由の抱擁のようだった。
ゆっくりと湯の中で手足を伸ばす。婆様の記憶に浸りながら、ふと妙な違和感を覚えた。勘解由の手渡してくれた『焔華』のことである。勘解由自身は母親の物だと言った。そして――、あの藤乃の言葉。勘解由も同族だと示唆するようなあの話を思い出していたのだった。
(では、勘解由様はもう一方の総領家の末裔って事――)
互いが知らぬ間に超えてしまった二家の掟。
幻之介は今一つ理解できぬ事があった。確かに身を交わした相手とはいえ、互いに男同士。子の成しようもないのである。
(『焔華』を得て鬼に変わる――。では何ゆえ、今までの持ち主は『鬼』にならずにすんだのか……。何故、私だけが……)
湯を見つめながら幻之介は一人、考え事に没頭していた。糸口は――、藤乃の言葉。あの時、彼女はなんと言っていたか? 勘解由の生母を知る彼女が、何故婆様の言ことをも知っていたのか……。その答えはすぐにも届きそうなのに、なぜかはっきりとしないのであった。
暗闇の中を歩く勘解由。その姿は、何かに導かれていくようにも見えた。全く光源のない状況なのに、その足取りは異様な程しっかりしているのであった。ただ勘解由自身、なぜかこのまま進み続けなければならないような気がしていたのだった。
そして、今――。また一歩を踏み出そうとしたところで、背後から襟首をひっぱったモノがいた。
咄嗟に、出そうとしていた足を踏ん張って転倒することだけは免れたのだった。と、次の瞬間。足元の小石が、遥か下の方に転がっていくような音が聞こえた。
(崖……、か……)
ほっと一息ついたところで後ろを振り返れば、何やら獣の吐息。その相手は、いまだに勘解由を放そうとすることなく後退したのだった。半ば引きずられるように後ずさる勘解由。わずかに月明かりの差し込む場所まで連れてきた獣は、そこで勘解由を解放したのだった。月明かりに浮かび上がったのは、真黒な馬体。見慣れた手綱が、荒駒であることを知らせた。
「なんでお前がここに居るんだ? って、いつの間にか月が昇ってたのか……」
荒駒は勘解由に背を向けると、まるで乗れとばかりに頭を振り仰いで見せた。
不思議とこの時、勘解由の中からはあの想いが消えていた。
「大分時が過ぎちまったようだな……。まあ、幻之介が心配するといけねえからな。戻るか……」
誰かに聞かせるような呟きを、勘解由は無意識のまま口に乗せていた。
片手で器用に手綱を握って馬に跨ると、それを待ちかねたように荒駒は足早に駆け出していた。
勘解由が小屋の戸に手をかけた時、奥からガタリと物音がした。
あわてて飛び込んだ勘解由が見たものは、湯殿で倒れこんでいた幻之介の姿であった。近寄って抱き起こせば、紅く上気した顔の幻之介。軽く揺さぶれば、トロリとした表情でゆっくりと瞼を開けていくのだった。
「あ……、勘解由様……」
勘解由は苦笑を隠しきれなかった。
「幻之介、おまえなあ……」
「あのう……、蹄の音が……、聞こえましたが……」
幻之介はその音にあわてて湯を出たのだと言った。
「ああ、俺だ……」
そう言うと勘解由は幻之介を抱き上げた。
粗末な仮寝具の上に、裸のままの幻之介を横たえると、勘解由はそのまま覆いかぶさった。
ぼうっとした状態の幻之介は、なにをされているのか理解できぬままであった。
触れる唇は、温かく湿り気を帯びていた。勘解由はゆっくりとした先を忍び込ませながら、その温まりきった肌の上に指を這わせていった。その勘解由の指先が幻之介の下肢を捕らえた時、若者はびくりとした様に腕を突っ張ったのだ。
「どうした?」
勘解由の問いかけに、幻之介は困惑した表情で見つめ返してきた。
「だって、婆様が……」
ふと、思い出したかのように涙を浮かべた若者。
「ああ、婆様ならば、そこに居る」
勘解由は視線で幻之介の着物を示した。
「でも……、私……」
幻之介は体を捩じらせるように勘解由の下から逃げ出そうとしていた。
その体を、勘解由は押さえつけた。
幻之介の顔が歪む。
「でも、なんだって言うんだ? 幻之介。……俺に触れられるのは嫌か?」
幻之介は怯えたように頭を振った。
「……だったら、良いだろう」
と、言いながら勘解由は顔を近づけた。
とたんに、幻之介は顔をそむけた。その目じりを涙が伝い落ちた。
「どうか、今宵だけは……。今だけは、許して……」
「何故?」
「私……」
幻之介の中では、婆の残した悲しい記憶が重く圧し掛かってくるのだった。
途端にゆるんだ勘解由の力。だが、代わりとばかりに幻之介を抱き起こしたのだった。勘解由の胸元にすっぽりと納まった幻之介の体。
「俺に触れられるのは、嫌なのか?幻之介」
再びの問いかけに、幻之介は寄り添いながら頭を振っていた。
「俺はそれ程頼り甲斐が無いのか? お前の泣き場所にもなってやれねえ程に……」
「勘解由様――」
涙に濡れた幻之介の顔が見詰めていた。
「どんな外道な法を使おうと、お前自身に変わりはねえ。悲しければ泣けば良い。感情を抑える事なんかねえ……。だが、今のまんまじゃ眠る事も出来ねえんじゃねえのか……」
先ほど口合わせを拒んだ事を思い出した勘解由は、屈み込む様にして幻之介の耳元に口を寄せた。そっと吐息を吹きかければ、幻之介の体はびくりと反応を見せた。
「でも、私は……」
「あの、婆さんでも喰らったのか?」
勘解由の言葉に、幻之介が息をのみ込んだ。
「たとえそうだったとしても、俺には関係のねえ事だ。それが、お前らのやり方なんだろう?」
「勘解由様は、……嫌ではないのですか」
「何がだ……」
わずかに体を離した幻之介。俯いたまま数回瞬きをしたかとおもうと、吐息を一つ深めに吐き出した。伏せた顔をゆっくりと持ち上げると、幻之介は真直ぐに勘解由を見つめてきたのだった。
真紅に染まった瞳。そして――。半開きになった唇から僅かにのぞく二つの輝き。
「まだ……。婆様の力が制御できないのです。このままでは、私……、勘解由様に……」
言葉に詰まったように、幻之介は両手で顔を覆ってしまった。その指爪も、鋭く伸びていたのだった。
「構わん、幻之介。……大体なあ、ちびすけのころだって牙や爪はあったんだぜ」
勘解由は幻之介を抱きしめながら、優しく頭を撫でつけていた。
> 9―3
この記事にコメントする
- HOME -


