周囲の会話など、幻之介の耳にはただの雑音にしか感じられなかった。ただ、抱きしめられる心地良さに、うっとりと甘えて寄り添っていただけだった。
気がつけば、明るい日差しの差し込む部屋に横たわっていた。差し込む光の量が、陽の高さを知らせてきた。いつの間にか寝間着で寝具の上に横たわっていた幻之介。その記憶は曖昧なものしか残っていなかった。
藤乃と喜平次の前で勘解由に抱き寄せられたところまでは朧気ながら覚えていた。だが、その先がぷっつりと途絶えているのである。ただ、虚ろな記憶の中で、勘解由の苦笑だけがはっきりと浮かんでくるのであった。ゆっくりと、その身体を寝具の上に起こせば、鈍い痛みが頭部を襲ってくるのだった。静かに襖の開けられる音――。
「気分はどうじゃ、幻之介殿」
「あの……」
何から口に乗せたら良いのか判らぬまま、ただ藤乃を見返しただけ。
水を湛えた器を手渡してよこしながら、藤乃はぼそりと呟いたのだった。
「勘解由殿ならば、広間の方で仕事をしておられるぞ。腹は空かぬか、幻之介殿」
食欲など到底わく様な体調でも無かった。それでも喉だけは異様なほど渇くのである。幻之介は差し出された器の水を飲み干しただけ。そのあとで、藤乃の手を借りて身支度を整えた。
「では、行くかの……」
藤乃の言葉に幻之介は疑問を隠せなかった。
「あの……、どこ…へ……?」
「勘解由殿がお待ちじゃ」
「でも…、あの……」
例の城に上がる為、藤乃から色々教えをこえ…、と言われていたのだ。行儀作法を教わったのは最初の一日だけ。昨日は全く動けずに、ごろごろしていたのだ。それが、今日は――。
「かえって、生のままの方が良かろう…、と、言う事になってな。幻之介殿の良さはそのままの姿であろうから……」
促されるまま、幻之介は広間の方へと連れて行かれたのだった。
そっと広間の入口に立った幻之介に気がついたのは、喜平次が先だった。
「さあ、早ようこちらへ……」
藤乃から喜平次へと受け渡された幻之介は、勘解由の傍に座るように勧められた。
「勘解由殿の監視を頼むぞ、幻之介殿。この方は目を離すと直ぐどこかに雲隠れしようとするのじゃからなあ……」
無表情のまま墨書きをしていた勘解由がちらりと喜平次に鋭い視線を投げつけただけだった。
それには何も反応することなく、二言三言幻之介に指示を与えると、喜平次は藤乃共々広間から出て行ってしまったのである。
墨書きを終えて、一旦筆を置いた勘解由は大きく背伸びをしたものだった。
「どいつもこいつも…、気のきかせ過ぎだって言うだ」
書き終えた書簡を幻之介に手渡しながら勘解由は言ったのだった。
次――、との声に、幻之介は積み上げられた物の上から一つを取って勘解由に手渡した。
それを受け取るかに思えた勘解由の手が、幻之介の腕を捕らえていた。引き寄せられた幻之介の体。重ねられた唇の動きに、幻之介の体からは簡単に力が抜けていった。
「めんどくせえ事をさっさと済ませて早く帰ろう、幻之介」
耳元に囁かれた言葉に幻之介は勘解由の顔を見上げたのだった。
「皆が待っている――。早めにあっちに戻ろうな、幻之介」
勘解由の言葉に、幻之介ははっきりと頷いていた。
その日から幻之介は日中、勘解由の雑務を手伝うようになっていた。気分転換と言っては手出ししてくる勘解由の手をかわしつつ、書簡を器用に手早く纏めていく。
そんな日が数日も過ぎた頃、二人の元を松次郎が訪れたのだった。
「白菊の傷も大分良くなってきましてね……。向こうじゃ、男どもを指図して復興に激を飛ばしていましたよ」
いつの間にか白菊の元を訪れていたのだろうか。あの村の様子を語って聞かせるのだった。
「それでなあ…。改めて言っておきたいんだけどなあ、幻之介殿。――白菊を俺の嫁にくれんか?」
急にあらたまって言いだした松次郎に、幻之介は優しく笑みを返したのだった。
「私がどうこう言う筋合いの話では…」
「否っ。そうじゃねえ。お前の諾が必要なんだっ」
殊更に真剣な顔をした松次郎に、幻之介は怪訝そうな表情を浮かべた。
「あれはなあ、どんな姿になろうともお前の臣だと言ってきかねえ。すべてはお前の為だけに動くんだと、そう決めているんだと……」
家庭を持てばいざという時に身動きが取れなくなる――、と言うんだ……。と、がっくりと肩を落としながら松次郎が言うのであった。
頼む――、と深々と頭を下げた松次郎を前に、幻之介はただ困惑を隠しきれないのであった。助けを求める様に、勘解由を見れば、苦笑を浮かべていた。
「そら、お前……。幻之介が言えば、否とは言えねえだろうが…。本当にそれで良いのか? 松次郎」
勘解由の言葉に松次郎は、はっと息を飲んだのだった。
「白菊自身がお前の事をどう想っているかって事が一番じゃねえのか。その上でだな……」
勘解由の言葉が終らぬうちに、松次郎は立ち上がったのだった。
「叔父上――。判り申したっ。要は彼女の気持ち次第だという事ですね」
と、言うなり足早に出ていったのだった。
慌ただしく出ていく松次郎を二人はただ黙って見送った。
「大丈夫だと思うか? 幻之介――」
「さあ、私には何とも……。でも、白菊の方も松次郎殿の事は満更でもない様子だったのですが……」
「……まあ、いざとなったら一肌脱いでやってくれや、幻之介。松に拗ねられると、こっちの計画もな……」
ふわりと抱きとめてくる勘解由に幻之介は身を任せた。
「奴にはこの家を継いでもらわにゃなんねえからな。でないと、お前との時間もゆっくり取れなくなる……」
「よろしいのですか?勘解由様は……」
「元からそれが俺の望みだったからなあ。籐五郎だって一人立ちしても良い頃合いだしな……」
それでも、僅かばかりの不安に目をそらして、幻之介は勘解由の温もりの中に身を置いたのであった。
> 10―6
- HOME -


