9・覚醒
その静寂は突然破られた。
小屋の戸口に何かが激しくぶつかるような物音がしたのだった。次の瞬間には、ドサッと重さのある物が落ちる様な音。
咄嗟に幻之介は勘解由の膝の上から飛退いた。と、同時に勘解由は近くに放り投げてあった太刀を手に取り、戸口へと向かった。
慎重に開けられた戸。
そこには血塗れの老婆が横たわっていた。すでに虫の息。無数の刀傷と矢傷からは、既に流れ落ちる物は無いとばかりに黒ずんだ塊がこびり付いていた。
勘解由は太刀を傍に置くと、その老婆を抱き起した。
そこには致命傷とも言うべき大きな傷がぱっくりと口を開けていた。ちょうど腹のど真ん中。しかも、他の傷と違ってこちらの方は真新しいものだった。
勘解由の背後で幻之介の息を飲む気配がした。
「来るんじゃあねえ、幻之介」
近付こうとした幻之介の足がその声で止まった。幻之介の位置からではハッキリと老婆の姿は見えない筈。だが、立ち込める独特の臭気でどのような状態なのかは容易に知れただろう。
「……やはり、幻之丞の笛の音であったか。ここで御主に相まみえ様とはのお……」
勘解由の腕の中の老婆の手が伸ばされ、中空を彷徨っていた。どうやら既に視力も奪われてしまったらしい。
「……どこえ、何処に居る……。幻之丞――」
その声に、幻之介の足は素早く動いた。勘解由の腕の中の存在を確かめるや、その手を力強く握りしめていたのだ。
「此処に……。御婆様――」
涙を流しながら、幻之介はその手に頬ずりしていた。
「ちょっとばかり、ヘマを遣ってしまってねえ。御館様とも逸れちまった……。お前の笛の音に気を取られているうちに、この有り様だ。ここで会ったは、何かの縁。この婆の『力』、御主に託そう――。方法は、解っているね……」
老婆は見えもせぬ相手に優しく微笑んで見せたのだった。
「お願い、勘解由様……。どうか二人きりに……」
「俺が居ては何か問題でも?」
困り果ててそれ以上を言えないでいる幻之介に代わって、勘解由の腕の中の老婆が答えていた。
「倭子の大事な方よ――。こればかりは見せられぬし、教えてもやれぬ。一族に伝わる秘めたる外道が術。到底『人』には理解出来ぬ事ゆえな……。幻之丞とて、お前様には見せたくはないだろう。鬼畜な化生としての姿など……。特に好いた相手にはなあ。……さあ、この婆の命尽きる前に――」
「なれば半刻だけ……。それ以上は駄目だ」
幻之介に向かってそう告げると、勘解由は老婆を横たえた。
勘解由が小屋の戸を後手で閉めた時、どちらの声とも区別が出来ない小さな声で「すまない……」と、聞こえた様な気がしたのだった。
勘解由は戸口に背を向ける様にして囲炉裏端に腰を下ろした。
外からは囁くような声と衣擦れの音が微かに聞こえた。聞く気は無くとも、どうしても意識がそちらへ集中していく事を止める事など出来なかった。呻き声とも嗚咽とも取れる短い声。それが聞こえては止み、そしてまた聞こえ始めるのだった。
何が行われているのか――。気にならないと言えば嘘になる。ただ、幻之介の表情が気になって動かずにいるだけ、と言うのが勘解由の本音であった。
(ううっ……)
絞り上げる様な呻き。
次の瞬間、バシャッと水玉がはじける様な音が聞こえて来た。
(婆様……、婆様……。ごめんなさい……)
啜り上げる幻之介の幼子に戻ったような泣き声が聞こえた。
勘解由は、わざと物音をたてて小屋の戸口に立った。そこで聞き耳を立てても、既に幻之介の鳴き声しか聞こえて来なかった。
半刻とは言ったものの、実際どのぐらいの時間が過ぎていたのかは、勘解由自身にも分からなかった。ただ、薄暗闇がその濃度を変え、空には満天の星が輝き出していた。
勘解由はわざと音をたてて引き戸を開けた。
暗闇の中に浮かび上がる白い肌。勘解由の目に飛び込んできたのは、素肌を晒したままで立ち尽くしている幻之介の姿だった。その口元から胸元にかけて、べったりと黒ずんだモノが貼り付いていた。だらりと垂らした両手の指先からは、ポタリ、ポタリと雫が滴り落ちていた。俯いたまま、ただじっと体を震わせている幻之介。其の足元には、安らかな笑みを湛えた老婆の事切れた姿があった。その一面に広がる黒い水溜りだけが、その表情を奇異に映らせるほど。幻之介は、勘解由の立てた物音には全く気がついていない様子だった。
幻之介の後方に脱ぎ落とされたままの着物を拾って、勘解由は近づいた。着物をそっと震える肩に掛けてやると、幻之介は堰を切ったように涙を溢れさせた。
無言の勘解由の促しのまま、幻之介は脚を進めた。
篝火の灯った湯船の傍まで幻之介を連れて来た勘解由。その肩から着物をそっと外してやると、幻之介はその場に膝まづいた。無言のままで、豊富に湧き出す湯を頭からかぶる幻之介。途端にその場には血生臭さが立ち込めた。
「少しの間だけ……、一人にして下さいませぬか、勘解由様――」
幻之介のか細い呟き。
「……分かった」
そうとだけ返すと、勘解由は幻之介の着物を持ったまま、小さな湯殿から立ち去っていた。
勘解由が背を向けた途端に聞こえだした啜り泣き。勘解由は手荷物を持って小屋の外へと向かった。
そこに横たわる老婆の亡骸。腹に合った傷から新たに胸元へと引き裂かれたような跡。
(一体、何をしてたんだ?)
勘解由は興味半分でその傷に触れようと手を伸ばした。そう、その傷の状態を確かめようとしただけであった。だが、勘解由の指先が触れた途端、その場から突然炎が噴き上がったものだ。
そう、丁度幻之介のあの衣裳に触れた娘の時のように――。燃え上がった炎は、たちまち老婆の全てを覆い尽くした。それこそ、流れ出した血の跡までである。但し、この炎の色はあの時とは違っていた。青白く――、まるで山間に灯る狐火のような冷たい色合いであった。
勘解由は、その炎が消えゆくまでじっと見つめ続けた。
(そこまでして、俺には知られたくない事なのか?)
ふと、勘解由はそう思った。
(生き胆を喰らうって方法で、相手の力を取り込むやり方があるらしいが……。まさか……、なあ……)
あれこれと考えを巡らせているうちに、老婆を焼いた炎は徐々に小さくなっていった。残されたのは小さな獣の骨だけ。それも二つに割れ、所々が砕けてしまっていたのだった。
どうして、そう動いたのか――。勘解由自身にも理解できなかった。勘解由は、その小さな骨を丁寧に、一欠片も残さずに幻之介の着物の上に拾い上げていた。しかも、一筋の光もない暗闇の中で――。何故か、その時は勘解由自身には、見えていたのであった。まるで真昼のように、あたりの様子が知れたのであった。
(幻之介の移し身と一緒ならば、あんたも安心して常世に旅立てるだろうよ。なあ、婆さんよ……)
全てを拾い上げた勘解由は、先ほどまで幻之介が纏っていた着物で包み込むと、それを大事そうに抱えて山の中へと消えて行った。
立ち込める臭気。己のとった行動に震えながら、幻之介は何度も湯をかぶっていた。赤黒い流れが徐々に薄まり、そして色が消え去ってもその行動は続けられた。だが、手桶を持ち上げる腕が少しずつ力を失っていく。はじめは片手で持ち上げられた重さも、次第に両手でも辛くなってきた。何度目かの時、幻之介は桶ごと己の足もとに湯を落としてしまった。大きな音を立てて転がる木桶。その音が狭い湯殿の中に響いたのだった。湯けむりの中に朧気に光る篝火の炎。その揺らめきの中に、かつては母の代わりともなってくれた婆様の最後の顔が浮かび上がったのだった。
老婆の力を得たと同時に、流れ込んできたその記憶。婆様――、婆様――、と幻之介はその場に泣き崩れたのだった。
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