幻之介がゆっくりと飲み下すのを確認しながら…。何度も、何度も繰り返される行動。与えられる湿り気の代わりとばかりに、表情の変わらぬ幻之介の眦からは一雫が零れていった。
無言のままに勘解由はその雫を指先で掬いとった。そんな勘解由の表情が僅かばかり穏やかになっていたのだった。
されるがままの幻之介の変化に多少の希望を見つけたらしく、勘解由は再び水ものを口にして幻之介の口へ注ぎ入れたのだった。時折口内を愛撫するように舌先を動かせば、僅かに幻之介の睫毛が揺れだしていく。繰り返していくうちに、僅かばかり幻之介の表情が苦しそうな顔つきをしている事に気が付いた。ほんの微かな幻之介の手先の震え。それを見取って、勘解由はその行動を止めた。そっと胸の中にその頭を抱き込めば、いつの間にか幻之介は眼を閉じ、規則正しい吐息を吐いていたのだった。
そんな幻之介を寝具の中に横たえてやると、勘解由はその部屋の奥にしつらえられている湯殿へと向かった。
この部屋に誰がか居る時は、決して火を落とすことの無い湯殿。常に何時でも入れるようになっているのは、元々が閨事の為に設えられた部屋だという事なのだ。常時誰かが外に張り付いている事になっていたのだが…。
湯殿から勘解由は外の小者に向かって声をかけたのだった。声を掛けられた方は、そろそろと中を伺う様に覗き込んできた。
「わりいが、当分は時間を決めて火を入れてくれ…。常に付いて居なくて良いから…」
「ですが…」
「無駄になっちまうからな…」
そういう主の命令に従わないわけにもいかず、小者はただ承服の返事だけを返した。勘解由から言われた時間を再確認すると、小者は火を落としてその場から離れていった。
勘解由が寝室の方に戻ってくると、幻之介は手足を縮める様に眠っていた。まるで小さな獣が寝入る様な姿で――。
そんな幻之介をそっと抱き上げると、再び勘解由は湯殿の方に向かったのだった。
その部屋に籠る様になってから、勘解由はほとんどの時間、幻之介を抱き留めたままで過ごしていた。部屋に出入りをするのは藤乃と喜平次の二人だけ。それ以外は誰も部屋に立ち入る事は出来なかった。元々が用人でも限られた者しか出入りを許されない場所と云う事もあったのだが、はなからの部屋付きですらも出入りを禁じられた程。
決して勘解由が命じたわけでは無かったのだが、なぜか藤乃が率先してそのように取り計らったらしいと気が付いたのは大分経ってからの事だった。
「…他の部屋付きはどうした」
何気なく聞いた勘解由に藤乃は笑って答えていた。
「何か不都合でもありますか、勘解由殿」
「いや、別に…」
「こんな、情けない姿の主を他の用人に見せるわけにはいかないでしょうからねえ」
「情けねえか…」
「ヤニさがっておいでですよ、勘解由殿。御顔には、邪魔するなと書いてございますしね…」
「…」
言葉も返せず、勘解由はそっぽを向いた。
部屋ごもりの当初に見られたような憔悴しきった勘解由とは見比べられぬ程穏やかな表情をしていたのだった。幻之介の方はと云えば、一見同じような無表情のままにも見えなく無いのだが…。
それでも、その指先は時々勘解由の着物を掴んでいる事もあったのだった。ちょっとした幻之介の変化が、どうやら勘解由にも嬉しいらしく表情が徐々に穏やかになっていった様子。
幻之介の顔色の方も徐々に明るさを取り戻しているようにも見えるが、如何せんこの部屋は日の光も入らない奥座敷。はっきりとした肌色の変化は定かでは無い。それでも、幻之介の為に差し入れられた御膳はあらかた空になっていく。勘解由の努力のおかげとも言うべきなのだろうが、逆に勘解由の酒量が増えている事も確かなのであった。
「勘解由殿、最近聊か酒量の方が…」
「云うな、藤乃。解っては居るんだが、こればかりはな…」
「幻之介殿ほど若くは御座いません。程々になさいませんと…」
「体が持たぬと、言いたいんであろう…」
説教臭い老女の言葉に勘解由はウンザリとしたように見つめ返していたのだったが…。
「いえ、そのような事を申し上げている訳ではありませんよ」
と切り返す藤乃。
「説教は良いから…」
「このままでは肝心の時に役立たずになってしまうと、申し上げているのですっ」
「なんだよ、肝心の時って云うのは」
「役立たずになったら、何方が悲しむのでしょうなぁ。今以上に追い込ませますか、そこな若者を…」
藤乃流の説教は、まさに閨事の事を指していたのだった。
酒精が過ぎて肝心の時に事が起こせなかったでは、幻之介の落ち込みは今以上になる事間違いないというのだった。相手を責めるよりも己に非があると思い込むが故の心の患いを、老女藤乃は読み切っていたのである。
そこを指摘されたのでは、流石の勘解由も頭をかくしかなかったのだった。
老女藤乃に指摘されてからと云うもの、勘解由の酒量は目に見える形で減っていった。替わりとばかりに、幻之介に与えていた笛を口にし始めたのだった。
幻之介を後ろから抱いたまま、その頭上でその笛を吹いていた。何日かすると、いつの間にか幻之介がじっと己を見据える様な視線を向ける様になったのに気が付いたのだった。
その日も吹き始めてさほども経たないうちに表情の無い幻之介の視線とぶつかった。ちらちらと明かりの揺れる部屋の中。二人の影も揺れていた。
勘解由は吸い寄せられるように幻之介の唇に己の物を重ねていた。舌先を絡めても反応を返す事の無い幻之介。小さな溜息と共に勘解由はそっと唇を離した。表情は相変わらずのもの。
勘解由はその華奢な体を抱き直すとそっとその手に焔華を握らせた。
「おめえのだ…。吹いてみるか…」
云いながら、幻之介の手を添えさせてその口元に運んでやった。
その小さな体は忘れていなかった。
ゆっくりと目を閉じたまま、飄々と奏でられる調べ。勘解由はその笛の音に耳を傾けた。何気なく、二人の影を視線にとらえれば灯りの揺らぎに合わせる様にゆらゆらと揺れだしていた。
その時、勘解由はその揺らぎの中に、違う物を見つけたのだった。幻之介の体から噴き上がる炎のような影の存在をである。徐々に大きくなるその影は、いつの間にか己の影をも取り込んで揺らめいていたのだった。その影の変化に視線を外す事も出来ず、勘解由はただ膝の上の幻之介の体を抱き締めていた。
そんな時、幻之介の胴体に巻きつかせた己の腕に雫が落ちる感覚を捉えたのだった。ふと、幻之介の顔を覗き込めばその視線を感じてか、悲しげに微笑んで笛を吹く事を止めてしまったのだった。
「…離して、勘解由様…」
久しぶりに聞く幻之介の言葉は震えていた。
「良いから、続けろ…」
耳元に囁く勘解由の言葉。
ぶるりと身ぶるいを返した幻之介の手からは焔華が零れ落ちた。
「…お願い、…御放し下さい」
幻之介の影は大きく炎を纏っていた。
「だめだ、幻。離さねえ…」
幻之介はその顔を両手で覆ったまま泣きじゃくった。
「許して…」
「やっとおめえが戻ってきたんだ。何で手放せようか…」
云うと勘解由はその体を乱暴に寝具の上に横たえさせた。
幻之介は顔を覆ったまま、勘解由の方を見ようともしない。それに業を煮やしたか、勘解由は力づくのまま、その両腕を一括りにしてその頭上に張り付けたのだった。
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