勘解由の腕の中で、幻之介はただ虚ろな表情を晒しているだけであった。愛しい男の声も届かず、ただ己の中の混沌とする渦の中に一人取り残されていたのだった。身体に触れるものの感覚だけは幻之介に届いては居た。でも、それだけの事。己の意思とは無関係に動いていく周りの流れに逆らう事も出来ず、抗う事も叶わず、迫りくる闇の渦の中に幻之介の思考は囚われていったのだった。
思う事も考える事の無い闇の渦の中。そこへ誰かの囁き声が聞こえている様な感覚。それでも、幻之介はその声にすら気を止める気力も湧かなかったのだった。
(もう構わないで…。このまま、闇の中で朽ち果てていきたい…の…だから…)
愛しく思う男の手管にも反応を返せなくなってしまった身体を抱え、不安に震えるその上に降って湧いた様な話。それを耳にした途端に、幻之介は暗闇の思考の中に囚われた。
(もう、私は必要とはされぬ…。なれば…むしろ…このまま)
徐々に感覚の薄くなっていく手足。吸いこまれていくようにその闇の中に幻之介は落ちていった。
滑りけを伴う水の感触。口の中に溢れていくその感覚をただ幻之介は反射的に飲み下した。吐きだそうという感覚すら湧いてこないのである。口の中に注ぎ込まれていくその液体をただ幻之介は飲み込んだ。やっとなくなったと思ったのに、また次が溢れてくる…。その合間をぬう様に歯列を擽る物の存在を気に留める事もなく、息の苦しさに涙が零れていった。
(…もう、要…ら…ない…)
声を出す事も出来ない闇の中。ただ、幻之介はその手足を縮めたのだった。
繰り返す囁きに幻之介の瞼が微かな震えを見せた事を勘解由は見逃さなかった。そのまま、その華奢な体を抱き上げると広間の奥の間へとその姿を消した。勘解由にひれ伏したままの藤乃は黙ってこれに従った。
奥の間の寝具の上でじっと幻之介を抱き抱えたまま勘解由はその顔を眺めていた。そっとその襖の開く音に勘解由が顔を見上げれば、膳を捧げ持った藤乃ともう一人の存在。
「…何かほかに入用のモノがあれば申しつけ下さい。我がら運びいれましょうや…」
そう云うのは好々爺の笑みを浮かべている元家老職の喜平次。
「爺…、おめえまさか」
「婆殿からお話は伺っておりましたのでね…。が、こういう物は早く対処したからと云ってどうなる物でもありますまいに…」
運び込まれた膳は勘解由の酒膳と幻之介用に設えられたと思われる水物を乗せた御膳であった。重湯とこの時期貴重な果実の絞り汁を乗せた幻之介用のそれをそっと勘解由の傍に差し出す藤乃。
「余程、貴方様の傍を離れる事を厭うたのでありましょうが…。これがこの方の本質なので御座いましょうな」
そういう藤乃の方へ勘解由は視線を移した。
「誰に文句を言うでもなく…。ただ己の中に閉じこもるなど…。嫌ならば他にもやりようがあったでしょうに…」
「否、むしろ好都合と云うべきなのではないか、勘解由殿」
そう切り返す爺の言葉に勘解由はあからさまに眉根を寄せて見せた。
「なにがだっ」
何かを絶える様に絞りだす勘解由の言葉。
「ああ…」
逆に手を叩いて見せたのは藤乃。
「解りました、家老殿。早速に松を走らせましょう」
嬉々として、その部屋を飛び出して行ったのは藤乃。
いまだ、状況が読めず爺をじっと睨み返している勘解由に、喜平次は吹き出しそうな笑いを堪えて言った。
「本当に、勘解由殿はこの若者の事になると周りが見えなくなるらしい…」
「なんでえ…」
「幻之介殿は病気ゆえ、新春の宴へはご遠慮仕る――。と、一言使いを走らせればいい事ではありませんか」
「…」
「幸い、松次郎は大殿の傍仕えに一度は上がった者。その者が見たまんまを伝えるのです。好都合でしょう…」
にやりと笑みを浮かべる爺とは反対の表情を浮かべながら腕の中の若者を覗き込む勘解由。
「これで、当分の間は時間を稼げるでしょう。本当に、<裏読み・先読み>を得意とする貴方様らしくもありませんな。余程、仮病でも使って頂こうと思って居た処…。この様な心の患いはそう簡単には治りませんのでな。ちょうど良いではありませんか、勘解由殿」
視線の合わない若者の顔を覗き込みながら、勘解由は黙って爺の言葉に耳を傾けていた。
「御治り致す頃にはどうでしょうかな。先方の気も多少は薄れるのではないでしょうかねえ…。それとも、勘解由殿の気持ちの方が…」
「馬鹿なっ。俺の気が他に移るってえのかよ」
「なれば、焦る事もないでしょうに。じっくりと時間をかけて養生させておやりになる事ですよ…。たとえその後再びこのような声掛かりを受けても揺らがぬ程に…」
爺は見抜いていたのか。不安を抱えていた幻之介の動揺に追い打ちをかけた者の存在を暗に匂わせる様なモノ云い。
「幻之介がこうなった原因は俺にあるって云うのか」
「おや、そう聞こえましたかな。なればそうなんで御座いましょうや」
からからと笑いをあげる古狸の様な顔付き。
勘解由の凍てつくような睨みをもモノともしない老人は更に追い打ちをかけた。
「なればしっかりと養生させてあげることですな。それが責任の取り方と云うものでしょうが…。及ばずながら、この爺目も御手をお貸ししたしましょう程に」
云いながら、老人はその部屋から姿を消したのだった。
取り残された二人。
誰の邪魔も入らぬ奥座敷の中で、勘解由は溜め息交じりに若者の顔を覗き込んだ。
「…幻、おめえは。何故責めねえ。嫌ならば嫌だって何故…」
そこまで言って、勘解由は人形のような表情のままの幻之介の頤を掴んだ。自分の顔の方に向かせるとその瞳に映り込んだ己の情けない顔をまじまじと覗き込んだのだった。
「そういや、前に嫌だって云ってたんだよな…。あれの所には行きたくねえと…」
ゆっくりとその乾いた唇に己の物を重ねていった。それでも、幻之介の瞳は閉じる事は無かった。ゆっくりとかさついた唇を舐め上げて潤いを与えていく。時折、水ものを含みながらその口に流し込んでいく。勘解由は少しずつ、ゆっくりと何度も同じ行動を繰り返して行った。
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