まあ、驚いたのは男達の方。普段と違う蹄の音に振り返ればよもやの馬影。しかも裸馬同然の黒駒の背中には、血塗れの若者。やれ薬氏だ、やれ医者だ…と騒ぎ立てるのを追い払って、若者共々湯殿に向かった。
洗い流してしまえば、思ったほどの外傷は見当たらなかった。あちらこちらに点在する擦り傷と打撲の跡。一番ひどかったのは左足の腫れ。とりあえず、慮辱の痕は見当たらず、ホッと胸をなでおろす己に困惑した程であった。思いのほか白い肌が、勘解由に何かしらの感情を沸かせた。
(女子でもあるまいし…)
浮かんできたモノを振り払うと、勘解由は自らの寝所に抱き運んだ。気を利かせた男たちが医者を呼んできていたらしい。
「馬のせいじゃありゃせんって。…ここの馬どもなら、こんな華奢な体なんか一踏みだろうさ。まあ、足は挫いただけのようだしな。…まあ、暫くは安静が必要さね。…むさ苦しい男所帯にゃあなんだがなあ…」
診立て終わった医者が、別室でこう言って帰った。
「なあんだ。…わし等てっきり…、なあ…」
かつての部下たちがホッと胸を撫で下ろした。
「人の話も聞きもしないで…。早合点なんだよ、おめえらは…」
湯上りの単衣のままで、勘解由は酒をあおった。囲炉裏を囲んでの車座の中、奥の様子をのぞきに行った一人が、目ェ明けやしたぜ…、と告げてきた。
「じゃあ、あっしら、これで…。旦那、何かありましたら、声かけてくださいよ」
「ああ、そん時は頼むさ…」
勘解由の片手あげに、それぞれが立ち上がり、自分の庵へと戻っていった。
ぼおっとした表情で天井を見つめる若者の顔を勘解由はしばらく眺めていた。その顔が、ゆっくりと己の方を向く。
「気ぃ付いたか?」
その声に、若者の表情が怯えたものへと変化した。
「動くな。…頼むから、そのままで。…怖えなら、傍には寄らねえから…。」
(そりゃあ、当たり前ぇだよな。…目の前で、人の首飛ぶところ見ちまえばな…)
勘解由は苦笑交じりのため息をついた。
「こうなったのも、何かの縁だ。其の足、治るまでここに居ろ。…なんか欲しいもんはねえか?」
「…いえ、…あの」
「なんだ」
「他の者は…、どうなったのでしょうか?」
「…さあ、な。…あの場に居たのは、お前だけだったからなあ…」
「…そう、ですか。では、私一人…、生き永らえた…、という事なんですね…」
はらはらと、声もなく涙を流す若者。
「まずは…、体…、治せ。それから、先の事は考えれば良いさ。…お前、なんて名だ…」
「…幻…之介と…」
「…ゆっくり、休めよ。幻之介。」
勘解由は、そっと部屋を出た。後ろ手で閉めた引き戸の奥からは、暫くの間、押し殺したような啜り泣きの声だけが響いていた。
勘解由は一人、その声を聞きながら、隣の部屋で酒をあおった。夜も更けたというのに一向に睡魔がやってこない。部屋に差し込む月明かりが、徐々に西へと傾いていく様を、体を横たえながら、ぼんやりと眺めていた。
幻之介と名乗った若者の、怯えきった瞳の色が忘れられなかったのだ。どこかで、覚えのあるようなあの表情。過去に出会った者達をゆっくりと思い浮かべていった。ふと、心当たりにたどり着き、勘解由は思い出し笑いのように口元を綻ばせた。
(いくら、色白って云ったってえなあ…。ちびすけに似てるっていったら…、幾らなんでもなぁ…)
小さな白狐の事をふと思い出し、照れたように勘解由は頭を掻いた。
啜り泣きが聞こえなくなって暫く立つことをよい事に、勘解由は若者の横たわる部屋へと忍び込んだ。差し込む、月明かりが、泣き腫らした若者の瞼を仄かに照らし出す。その陰影を、勘解由は飽きる事なく眺め続けていた。
三日ほど経った頃には、幻之介はなんとか伝い歩きが出来るほどには回復していた。が、屋敷の主の命令でほとんど部屋からは出ない生活を強いられていた。嫌なわけではない。過保護すぎると、笑いさえ込み上げてくる。声はかけてくるが、傍には近づこうともしない主。時々痛いほどの視線を感じる事もある。が、振り返ればすぐにその主は視界から消えていく。逃げようと思うわけではないのだが、与えられた寝巻き一つでは、到底外に出る事も叶わない。移りゆく季節を告げる冷たい風。せめてそれを感じたくって、幻之介は縁側へ続く引き戸に手をかけた。部屋の奥の方から感じるいつもの視線。振り払うように、日当たりの良い場所へと、腰をおろした。
温かい日差しにもかかわらず、吹く風は晩秋特有の冷たさ。さすがに、薄物の単衣では肌寒い。幻之介は、両手で己の体を抱き込むようにして体をさすった。吐く息が僅かに白く残るほど。くしゅんっ、と、くしゃみ一つで全身が粟立つ。ぶるりと体を震わせた時、ふと、温かな物が体を覆ってきた。
「馬鹿…。そんな格好では、風邪を引くぞ」
人肌の温もりの残る羽織を残して、すぐに傍から離れていくその存在に向かって幻之介は思わず手を伸ばした。
驚いた表情を見せたのは、引き留められた方。
「…俺の事が、恐ろしかったんじゃあねえのか…」
見下ろしながらのその言葉に、幻之介はただ、首を振るしか出来なかった。なぜか、勘解由を前にすると言葉が出てこなくなるのだった。何から、話せばいいのか…、頭が真っ白になってしまうのであった。微妙な距離を置くような形で、勘解由も傍に腰をおろした。さわさわと、風に揺れる草木の音だけが二人の間を流れた。
これなあ…、と沈黙を破る様に、勘解由が差し出したものを受け取った。
「勝手に見て、悪かったが…。大事なもんだったんだろう。おめえの、懐から出てきたヤツだからなあ…」
一見、細身の懐剣を思わせる様な、細袋。中から現れたのは、無残にも真っ二つに割れた笛。
「これも…、壊れてしまったんですね…」
母の形見の笛・不知火だと幻之介は勘解由に告げた。
「…そうか。じゃあ、代わりには、…なんねえか」
云いながら、勘解由が差し出してきた木箱を受け取った。箱の上には『焔華』の文字書き。開ければ見事な細工の施された笛。
「…お袋の持ちもんだったんだか。…俺は、やらねえしな。…おめえにやるよ」
照れくさそうに言う勘解由を、じっと幻之介は見詰めた。
「でも、…これは。…貴方様の」
「持ってても、使わねえなら、ただの飾りにもなんねえさ。…音が出せて、ナンボノもんだろうよ。使える奴が持ってる方が、値打ちがあるってことさ」
次に続ける言葉を探して幻之介は手の中の物を見つめた。が、やっとの会話もここまで…。外から、「旦那あ~、ちょっと」と、勘解由を呼ぶ声が聞こえたのだ。
まったくもう…、と勘解由も腰を上げた。
せっかくの時間を終わりにしたくなくって、幻之介は、勘解由を呼びとめた。
「あの、…いろいろと、有難うございます。…旦那様」
その言葉に、絶句したような表情を向けたのは勘解由。
「…、おっめえ…。その、なんだあ。『旦那様』ってのは、止めてくんねえか」
仄かに、頬染めたような顔色の勘解由。
「おなごじゃあ、あるめえし…。なんか、…こう、勘違いしてしまうから…」
「でも…、皆様そう、呼んでおられますし…。貴方様の、お名前も知りませんので…」
「…って、そうか、わりいなあ。名乗りもせんで…。勘解由だ。…俺の名は。」
勘解由は気まずそうに、頭をかきながら、呼び声の方へと消えていった。
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